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姜宝林氏――山水画の局面打開者
2019-08-03 18:40
来源:中国文化人物
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中国芸術研究院博士課程指導教官、中国国家画院委員会、李可染画院副院長の姜宝林氏は伝統に根ざし、勇敢に革新し、模索に励み、めざましい成果を得ており、国際的な名声を得た芸術家である
中国文化人物編集長王保勝/撮影・報道
『賀蘭山一截』117×64cm 1990年 姜宝林の作品 『第二十六回モンテカルロ現代絵画世界グランプリ-大公政府奨励』を受賞
『2018 30号』69x138cm 2018年 姜宝林の作品
『又是一春風』250cm×123cm 1996年 姜宝林の作品 第9回全国美術作品展覧銀メダルを受賞
数十年にわたる芸術実践の中で、姜宝林は中国画の現代化の変革に直面し、責任を持って時代の使命を担っており、線描山水画から新抽象筆墨への探求は、新抽象筆墨芸術を創り出しただけでなく、広範な影響力と世界的意義を持つ現代的な作品を数多く生み出した
姜宝林グローバル芸術交流の図鑑
『卓山』367x144cm 2011年 姜宝林の作品
『黒白灰シリーズ2016.1号』 70x138cm 2016年姜宝林の作品
『2018•4号』 69x138cm 2018年 姜宝林の作品
『2017•22号』 69x138cm 2017年 姜宝林の作品
『2018•31号』 69x138cm 2018年 姜宝林の作品
『和風屏山シリーズの五』144x365cm 2018年 姜宝林の作品
中国文化人物(編集長 王保勝)
人類は長い歴史の流れの中で多彩な文明の形態を創造し、歴史の長いレンズを通して中華文明の詳細をよく見ると、私たちは文明の交流と相互参照し、繁栄で多彩な美しい絵巻が見えるのだ。 西漢シルクロードの切り開きから、唐の鑑真が日本に渡り、玄奘が西へ経を取るため旅立つまで、 明の鄭和が7回も西洋に出航するから、近代以来の「西学東漸」、新文化運動まで、仏教の東伝、「伊儒会通」から、 中国の伝統的な画法と西洋の油絵とが交差して魅力的な中国の写意油絵を形成するまでなど、 これらの文明が交流・相互参照する生き生きとした実践は、中華文明が引き続き発展し、繁栄を保つためには、文化的な自信を固め、文明交流を拡大し、伝統文化が交流・相互参照の中で時代の光を放ち、人類運命共同体の構築に精神的な力を提供し、人類文明発展の新たで華麗な一章を共に書かなければならないことを教えてくれている。
中国芸術研究院博士課程指導教官、中国国家画院委員会、李可染画院副院長の姜宝林氏は、中西がともに融合する芸術実践において、伝統を重視する一方、現代を探求する。中華民族芸術の根幹を引き継いだ上で、創造的転化、革新的発展を堅持し、伝統の中から新たな抽象的な筆墨芸術を創出し、「筆墨を重視するだけでなく、現代も重視する」芸術理念を形成し、広範な影響力と世界的意義を持つ現代的な作品を数多く生み出した。中国の改革開放以来、同氏は積極的に異なる文明の交流と対話の中に身を投じ、交流・相互参照の中で中華文明を発揚し、芸術で異なる国、異なる民族間の相互理解と意思疎通の橋渡しをかけてきた。
馮遠:物境(概念)・境地・意境(情緒) 物像・心像・画像
――姜宝林氏の中国画芸術鑑賞(抜粋)
文/馮遠
画家の姜宝林氏の芸術作品は強烈な中国芸術風格を持っているが、古典的で伝統的な風格ではない。彼は中国と西洋の融合実践で知恵が富んだ選択と放棄、強化と吸収を行ったが、流暢でなくて不思議な欠点があまりない。彼の創作観念はきっと現代的で創造性が富んでいるが、中国の民族芸術の根脈を離れていないのである。彼自身は「珍しいが、本物を失っていない。華麗だが、真実なものを無くしていない」のである。現代の画家の中に、彼は態度が素晴らしくて、成績が優れている画家である。姜宝林氏の芸術が同行の専門家に好評を受けたのは、まさに長年間の苦しい洗練によってでき上がった概念・物像――境地・心像――情緒・画像という3つの境地、3つの段階を制御することで表した並外れている芸術の理解と芸術の技力によるのである。
――概念を取らないと、どのように物像の本物を求めるのか
歴代の中国画は「物」と「概念」に対する表現が作品で追求する第1境界と最も重要な標準である。若い頃に浙江美術学院の国画学部を卒業した姜宝林氏は絵画史をよく理解しているので、もちろんその重要なところを十分に知っているのである。彼は、陸俨少、顧坤伯に山水画を学んで、写生の技法だけではなく、筆墨の技法も重視して、絶えず山川の自然造型構造を表現する能力を高めて、そしてますます言語とする豊富性を理解している。生活の経歴は姜宝林氏に田舎で人と自然、人と土地山川がお互いに依存する関係を体験させたが、これは芸術家の成長、蓄積と芸術作品で「概念」――「物像」を追求するのにとても良い基礎を打ち立てた。
姜宝林氏は中央美術学院に進学した後に、技法を南陸から北李へ変えて、単純の技法の詳しい研究から多数の技法の研究に変えた。たくさんの先生に学んで、多数の技法を勉強した結果、彼の視野を広くして、見識を開拓して、更に彼の潜在力を誘発したのである。「他人の見解を自分の知識にして、自分の知識を自分の見解にする」が、姜宝林は同時代の師長と同級生の作品に生気が満ちあふれているのが、芸術の造諧より生まれたからだとはっきりと感じている。
――境地がないと、心像が出ない
姜宝林氏は「物像」、「心像」を伝える名手だけではなくて、「気分作り」と「境地作り」の達人でもある。姜宝林の作品は選び取った物像がきわめて平凡で、質朴であるが、これらの平凡で質朴な物像は抽出されて「心像」にすると、感情化、抽象化、記号化にされた芸術イメージとなる。
70年代、姜宝林氏の山水画作品は写実で表現を軽視しない道を歩いたが、江蘇・浙江奉化などの自然な山川から風景を取って描くことに非常に注意して、浙江美術学院で学んだ伝統的な技法で江南の風景を表現して、意韻が清新で、表現が生き生きとして、絵と物、景、心との構成が非常に合っていた。李可染の弟子になった後に、彼は江南の現実風景の描写から北国の風景を描くようになって、景物が秀潤から雄闊になって、筆致が硬くなって、筆法がよく変わっているだけではなく、同時に先生と友人のはつ墨、ディップの技法を吸収して、版画で全体を総括する画面形式の処理、壁画の彩りが鮮やかで重厚な色の特徴によって、彼の「心像」の創造と表現言語を視覚言語に変える組合せの能力を豊かにした。
姜宝林氏の山水画作品に現れた「境地」の豊かな特徴はその芸術の「心像」の豊かさに生まれて、江南水郷の美しさでも、北地方の山川の荒涼でも、すべて作品に彼の満ちあふれた気持ちを表している。
――境地を把握しないと、革新的な画像ができない
「物像」から「心像」を受けて、「情緒」から「境地」を得て、姜宝林氏の成功はまた絵の書き方と技法に対する理解によるのである。
80年代、姜宝林氏は杭州に戻った。中国画の検討を経験した後に、彼は毅然としてすでに社会に認められた顔を捨てて、新しい突進を始めた。彼は国内での広い勉強から西方の絵画芸術を研究し始めるようになって、かつて1度に「境地作り」で時空を打ち破って、古今の名家の技法を超えて、西方の近代的立体主義流派と抽象表現主義の絵画のいくつかの元素を吸収して、新しい境、新意、新しい像の包囲を突破するのに取り込んで、風格がそれに伴って大きく変わった。更に出国交流作品展で、西方の古今芸術を反省した。芸術が伝統から現代に進展変化する関係を検討して、古いものを取って現在の技法を更新して、芸術言語に中国と西洋を融合して、芸術精神に伝統に回帰する新路を歩いた。90年代初期、姜宝林氏はすでに成熟の芸術風格の上で再び新しい「画像」言語を構成した。彼の線描山水は簡単で複雑を表現して、更に次第に単純になって、物像を表現する描写性要素が大幅に弱まって、全体のリズムが強化されて、記号化の特徴が更に際立って、西方の抽象的絵画と比べて、物像を捨てない視覚の相違を維持している。
姜宝林の山水画作品の三境、三象という革新品格の確立と獲得は彼の勉強の熱心さ、勤勉より生まれたものであるが、もちろん彼の中国画芸術に対する執着に離れられないのである。
薛永年:宝林芸術の「筆墨」と「現代」
文/薛永年
姜宝林の70歳の誕生日に、中国美術館で個人展覧会を開催したが、同時にシンポジウムも催した。シンポジウムは私が主宰して、劉曦林、趙力中が参加した。討論はとても熱烈だったが、私は最後に、姜宝林氏の芸術がまだ終止していなくて、75歳、80歳にまた展覧を開催して、更に新しい境地に達すると言った。来年に彼が75歳になるが、この展覧はやはり特に優れていて、全般的に見ると、抽象的な要素が増えたのである。一部の友人が彼を近代的な中国画言語の代表的な人物に見なしたのは根拠があるのである。
筆墨は中国画芸術言語の核心で、姜宝林氏もたいへん筆墨を重視しているが、同時に自分が同様に中国画の現代も重視していることを強調している。彼は「筆墨とも、現代ともほしい」と言った。彼は「筆墨とも情緒ともほしい」ではなく、「伝統とも現代ともほしい」ではないので、どのように姜宝林芸術の作品の特色を理解すのか、どのようにその「筆墨」と「現代」の関係を理解するのか。これは考えなければならないのである。会議の通知には「作品抽象構成主義」で姜宝林氏の作品を概説したが、これはもちろんある見解である。しかし姜宝林の作品は抽象と構成要素を除くと、別の要素があるのか。たとえば具体象の要素があるのか。
清時代の石涛は「絵画が時代に従うべきだ」と言って、人民大学の陳伝席は「絵画が古代に従うべきだ」と言った。前者の意味は絵画が時代に従って発展して、保守的で進取の精神を失うことをしてはいけないのである。後者の意味は絵画が歴史の沈殿で、伝統的な要素を維持して、絵画の恒常で不変のものをしっかり守るべきである。それでは、姜宝林の作品は、時代だけに従ういわゆる近代的な絵画なのか、それとも近代感を表現しているとともに歴史の沈積がある高品質の作品なのか。これは彼の芸術実践と彼の作品を結び付けて理解しなければならない。
姜宝林氏の絵画言語は主体が中国画の言語で、外来語も吸収した。
彼の絵画は描写対象に離れてはいけないが、或いは大体において対象が彼に与える感銘に離れていなくて、彼の芸術の源にも離れていない。彼の描写対象は山水、花鳥、或いは山水花鳥の印象である。彼の芸術の源は、陸俨少、顧坤伯、潘天寿、李可染から黄賓虹、齊白石、更には呉昌碩にさかのぼって、また古代の文人画、民間壁画、切り紙細工、近代的な木版画もある。西方の近代的な芸術は彼もある程度に吸収した。
姜宝林氏の絵画がその個性化芸術風格の重要な要素のことにまちがいないが、芸術言語は交流の拠所、連絡の橋として、ある芸術家の独自のものではない。言語は歴史の継承性があるだけではなく、また同一の文化において同時代の普遍性がある。いかなる画家は勉強を通じて、絵画に従事する芸術言語を掌握して、それから「対外に勉強して、対内に心の源を得て」、そして元の芸術言語の利用中に、自分の個性化言語方式を形成するが、昔に「家法」と称した。その独自の特色を持った芸術言語方式の形成は継承から革新までの探求過程がある。前世紀の70年代に、姜宝林氏がすでに伝統的な絵画言語を身に付けており、そして個性化言語方式の探求を始めたと、私は理解した。
先に山水画を言おう。大体に前世紀の80年代後期から、姜宝林氏の山水画は以前の成熟の風格の上で、積極的に開拓・革新した。多種類の実験をして、いつも自分で以前の山水画からいくつか絵画の要素を析出して、極端的な方式で強化し、簡単で複雑を表現して、あるいは純化で変わって、個人の強烈な特徴を備える2種類の絵画方式を形成して、2種類の異なる独特な風格を出した。1つは線の組合と律動しかない線描山水に簡略化にしたものである。
姜宝林氏の線描山水は西部の山川へ写生に行った時の強烈な印象より生まれて、特徴がとても簡単で、ほとんど最大の限度で誇張を弱めて、完全にはつ墨、破墨と積墨などの技法を捨てて、色も多くなくて、ほとんど線の配列・組合せだけで、たまに点を入れているのである。このような描き方の源は、陸俨少の雲水画像だかも知れないが、姜宝林氏は版画の力度、切り紙細工の装飾、民間装飾図案の海水江崖、古印篆文の素朴さを合わせて、また西洋式構成の美しさを入れている。絵画から言うと、主に筆を利用しているが、単純で強烈である。
もう1つは積墨山水であり、点と線が積み重なって、その像を求めて、筆ではなくて、主に墨を利用して、外観も非常に強烈である。このような作品は江南、西北、雁蕩山と嵩山各地で受けた感銘を強化して、境地が雄壮高曠で、絵画が重厚である。このような技法は李可染の空間関係の表現を重視する積墨法の啓発を受けたかもしれないが、董源の『瀟湘図』と『夏景山口渡り待ち図』の点線交響に遡って、黄賓虹の『黒墨団中天地広』のぼんやりする像を入れて、短い線と大きい点で、幾重にも積み重ねて、入り乱れている。李可染の絵の逆光のように、彼は密林間の光感を描いて、山水画に表現される視覚感銘を広げた。
姜宝林氏の大写意花鳥は、その対象がカヤシリーズと神木シリーズを除き、大部分が先人の描写した普通の花と木であるが、みごとに描いた。源をいうと、潘天寿から始ったと言えて、張立辰との研究のおかげで、起筆に満ち広がって、はつ墨がすっきりで、光が煥発して、特に優れている。前世紀の80年代の前期に、彼は山水絵を主としたが、大体80年代後期から90年代にかけて、彼の写意花鳥画が多くなって、2種類の自分の風格を出した。
1つの風格は大雑把で、簡単から抽出して、構成を重んじて、形式感が富んでいる。もう1つは満構図に属する。山水画の局部の啓発を受けるようで、一面に広がる林の茂みと花の群を描いて、繁雑な葉と枝、大きな果実、きらめいている日光、揺れ動いている霧、大写しの手段でミディアム・ショットを目の前に引っ張って、また山水画の樹技法と葉技法を取り入れて、新しいものを創造していた。
ここ数年来、姜宝林氏は描いた対象をあまり弁別しやすくない更に抽象的な作品であるが、最初の啓発が山水より出たり、花卉より出たり、古人のある技法より出たりしたかもしれない。しかし内心の感銘を表現したとともに、強い形式感がある。姜宝林の自ら一派をなした山水画と花鳥画を見渡すと、彼の作品の技法は3つの属性を持っているが、即ち、1、具体象の合図性で、2、書道の抽象性で、3、平面構成性である。
いわゆる具体象の合図性とは、技法の物描きの機能を指すが、陸機は「物を表す最もよいのが言葉で、形を保存する最もよいのが絵だ」と言った。形の保存はカメラと功を争うわけではないが、絶対に同じにする必要がなくて、よく「見事なのは似ていることと似ていないことの間にある」ことで、有限な形が似た指示と納得によって、深層のイメージに入って、決してすべての形が似ている要素を排斥するのではなくて、書道の抽象性とも異なって、「見事なのは似ていることと似ていないことの間にある」の「似ていないこと」がまさに心の表現に残しておくことで、書道と構成意識に残しておいて、その創造性を発揮するのである。
いわゆる書道の抽象性とは、絵画が書道に類似して軌跡を点描する心表現機能である。もちろん、書道と絵画にずっと明らかな違いが存在しているが、書道は全く抽象的で、漢字の骨組みに離れられないことに対して、中国画は以前に全く抽象的なことになっていなくて、漢字の骨組みにも束縛されていないのである。書道は芸術として、情感を表現する機能を持っており、唐時代の孫過庭はそれを「その気性に達すること」と「哀楽を表現すること」にまとめたが、即ち、情緒を表現することと比較的安定な審美感情を表現することである。このような心表現機能の実現は筆法の運動の軌跡によるが、筆法の運動品質を保証するのに2つの前提がある。1つは基本的な点描形態の成熟のことで、2つは点描が縦横と感情の個性を合わせることである。
点描のリズムは芸術家の個人の生命と精神品格に対応しているが、点描の運動は2種類の内包を体現する必要がある。即ち、一、「1陰2陽の道」の「天地の心」で、乾旋回転の宇宙意識で、大自然の陰陽の開閉、起伏を体現して、1筆は1つの世界である。二、「筋肉気骨」の生命意識を表現して、1筆は1つの生命である。これは中国書道の線で、中国書道で絵を描いた西方の近代的な画家のマーク・トビー、マザー・ウィル、クライン、ポロックの線と本質的に異なっているのである。
伝統的な中国画の概念では、良い作品は、この作品の具体的な内容だけに属する技法の表現だけではなくて、技法点描を貫く宇宙の意識、生命の意識と個人の精神を必要とする。「見事なのは似ていることと似ていないことの間にある」イメージの美しさだけではなくて、点描の形態と点描運動を結び付けて、大自然と人の内心のような豊富で統一の抽象的な美しさもある。あのような抽象的な美しさは天と人の完璧な合わせで、道と技の合わせで、自分と物、古と今を超えたものである。
中国画の技法は、異なる点線面に表れているが、西洋画の点線面と違い、生命の意識、宇宙の意識と個人の精神の統一を実現するために、必ず一定の品質を保証しなければならないのである。これに対して、黄賓虹は歴史的な経験をまとめて、「五筆」と「七墨」を総括したが、即ち、「平、留、円、重、変、濃、薄、破、溌、積、焦、漬」で、筆を利用する時、中国の哲学思想の往がないと、復もないこと、垂がないと、縮がないこと、左へ行こうとすると、先に右へ行くこと、上へ行こうとすると、先に下に行くこと、点を累積して線になること、上から下まで映えること、左右対称のこと、白を知って黒を守ることを体現しなければならないのである。墨の利用について、彼の言った前の4種類は古人が既に論述しており、後の3種類は古人が実践したが、黄賓虹はそれをまとめて、墨の利用を新しい高度にしたのである。
いわゆる平面構成性とは、現代にたくさんの画家が中国画に導入した設計意識であるが、設計の導入が対応物像の図案を簡略化して、構図の形式感を誇張して、幾何図形の視覚に対する衝撃力を強化して、芸術家の個性に突き出た。文化跨りの芸術の現代性に2つのマークがあるが、1つが形式の簡略化のことで、もう1つが個性強化のことだと言った人もいる。構成の要素はちょうどこのに役立っている。しかし姜宝林氏の平面構成の導入は規範的な幾何図形がめったになくて、黄賓虹が主張した「きちんとしたり、きちんとしなかったりする三角形酒器」のことで、更に生命感がある。
姜宝林芸術の技法言語の特性を前文にすでに述べたが、近年に抽象的な要素が増えているが、全体的に見ると、やはり具体象の合図性、書道の抽象性と平面構成性の有機的な統一である。この3つの属性はしっかり結び付けて、互いに補完し合って、互いに依存して、互いに発展して、共に技法の機能を実現して、彼が追求する「筆墨とも、現代ともほしい」ことを実現した。彼は書道の抽象性のため徹底的に具体象の合図性を捨てることをしなくて、平面構成性のため書道の抽象性を見落とすことをしなくて、これはリズムの中で実現したのである。姜宝林氏の技法が大きい程度で品質と開放を保証する統一で、歴史沈殿の守りと時代の新しい機会の吸収の統一で、最大限度で優良な伝統を受け継ぐこととできるだけ辺境地方を開拓することの統一だと言える。
姜宝林氏の「筆墨とも、現代ともほしい」の技法は伝統的な技法に理解しやすいが、実には筆墨自身が発展の概念である。唐時代の前に、画家はすでに意識的に書道のような「骨法」を求めたが、墨の利用がまだ盲目的な段階にあった。唐時代の末期になって、山水樹石に伴って興った「墨に五色を分ける」の説と「水韻墨彰」の法によって、五代の画家の「筆と墨が両方ともある」という自覚を招いて、五代の荊浩はそれによって「水暈墨章で、わが唐代を盛んにする」ことを出した。宋時代の前に、筆墨の効能は大体において物を表現したが、宋の人は「筆でその形態を表現して、墨でその陰陽を分ける」と言って、筆墨の基本的な機能は主に対象の再現であった。
元時代以後に、画家の筆墨は意識的に心を表現して、心表現の筆墨の変化で山水画の丘溝の変化を導いて、だんだん表現の機能を発展した。表現の機能は明時代の末に董其昌に更に強化されて、彼は、筆墨が絵画が現実より高いマークで、「境のおかしさでいうと、絵は山水に及ばないが、筆墨の優れた巧みでいうと、山水は決して絵に及ばない。」といった。それ以後、「筆精墨妙」、「筆情墨趣」は画家の最も重要な追求になった。しかし山水画画家の筆墨の実現も更に格式化の山並みと樹石をキャリヤーにして、書道の抽象性と異なっている。清時代の後期以来、即ち、黄賓虹の言った「道咸中興」以来、筆墨の最新の発展は金石気の流行である。これは深刻に姜宝林氏の先輩を覆うだけではなくて、姜宝林の芸術にも溶け込んでいる。
金石気の筆墨は2つの特徴として表れているが、1つが力の美しさのことで、もう1つが墨法の発展のことである。前者は花鳥画で多く表現されており、後者は山水画で多く表現されている。この問題について、私が以前に指導した李明博士は、「道咸画学中興」が山水画の分野で反映されており、山水画に碑学の筆法と石ずりの効果を吸収して誘発した筆法内包の変化、および墨利用伝統の発揚だと指摘した。実際には、碑学金石書風が中国画の筆墨に対する影響は、清時代末期の趙之謙、呉昌碩などの人から出て、20世紀の多くの写意画家に及んでおり、これは筆墨が時代に伴って変化する明らかな例証である。
姜宝林氏の「筆墨とも、現代ともほしい」は,筆墨の技法がほしいとともに、また現代感もほしいことで、技法が上手なこととともに、現代感もよいことである。彼の言った筆墨がほしいことについて、私は2つの意味があることを理解しているが、一つの意味はすべての先人の筆墨技法に関する伝統的な方法と貴重な経験を受け継ぐのである。もう1つの意味は近代的な目標で筆墨技法の発展を動かして、即ち、時代の審美変化に順応して、小さい地球村における運命共同体の情報化時代での心理感銘と視覚経験を表現するのである。満構図、装飾感、平面性、極簡略化、筆法の金石肌理、記号の歴史関係は、すべて現代人の心理感銘と視覚経験の各方面を表現することを探求しているのである。
そのため、私は、姜宝林氏の「筆墨とも、現代ともほしい」の核心内容は、伝統的な要素を発揮して、近代的な審美を表現して、芸術の観念を更新して、新しい形式を作り上げる。「他人と異なる」方式で、新しい意、新しい境、新しい形、新しい線を探求するのである。このために、その筆墨言語方式は中国を主体にして中国と西洋のものを融合したもので、芸術の精神は伝統に回帰して現代に立脚するのである。実際には、彼は現代人の審美観念によって伝統的な図案資源と技法の資源をふるい分けて、それを分離して、最適化して再編して、大胆に強化して、伝統の現代的な転化を実現するのである。
賈方舟:姜宝林氏――山水画の局面打開者
――「姜氏山水」を兼ねて議論する
文/賈方舟
20世紀来の中国画の過程を振り返ると、伝統に対する創造的な転化と変革がすでにこの時代の基本的なテーマを構成したことが見えやすい。自分の芸術を変革と転化という出発点に置くと、意識的にこの歴史の前後関係に入って、時代の課題を担って、時代に関心を持たれる芸術家になる。
20世紀以来に、中国の水墨画の変革はほぼ2つのシステムで行われているのである。この2つのシステムとして、1つは伝統的な芸術を基本的な出発点とする「内から外へ」のシステムであり、もう1つは西洋芸術を他山の石とする「外から内へ」のシステムである。「内から外へ」のシステムでは、何人の創始意義がある大家は決して直接に西方に勉強したわけではないが、彼らが異なった方位より提供した手がかりは十分に中国と西洋の芸術の最高形態と根本的な規則における同一性を展示した。彼らは伝統から新しい改革構造を求める先例を創始しており、彼らの探求は異なった方位から明確な近代的な意図を出す。齊白石は文人画の文人情趣を民間情趣に引いて、民間芸術が近代的な水墨の精神資源になることを暗示した。黄賓虹は山石構造に対する分解によって技法の空間秩序と風格を際立たせて、伝統的な「筆墨精神」に含まれている現代の抽象的な境界を出した。潘天寿はその「文章」で視覚上できわめて強い構造感と鋳造感をもたらして、伝統的な絵画の構造から近代的な構成に近い道を開いた。その次の画家、例えば李可染、石魯などはそれぞれ異なる貢献をも作り出した。姜宝林氏の世代になると、同様に伝統自身の中で新しい変革構造を求めた。成果からいうと、彼はきっとこれらの先駆の優秀な後継者に違いない。
姜宝林氏の「新山水」はどうして「局面を打開した」のか。
姜宝林氏の芸術に関して、議論が多いが、また大部分が彼の「変」に言及した。しかし、ただ普通意義で彼の変を肯定しただけである。彼の「変」から生まれた平面化山水について――彼は自分で「線描山水」だと命名したが、私はそれを「姜氏山水」という名を付けた――別に十分な認定を与えていないので、本文は重点的にこの部分の作品の意義を検討する。
私はいつも錯覚があるが、私の前に出現しているのは2人の姜宝林氏で、1人が伝統的な写意花鳥でぶらぶらと歩いている名作家で、もう1人が伝統的な山水の構造を打ち破って、新しい道を切り開いた創始者である。
前者の場合、姜宝林氏はとても優秀で、大家の風格がいっぱいで、ほぼ完璧になった。しかし彼の芸術に最も価値がある部分は決してここにないと思っている。品位、水準、深い伝統的な学識と教養を持っている画家をたくさん列挙することができて、彼らはきっと伝統的な「脈線」に身を置いているのに違いない。しかし、この「脈線」が彼らの芸術によって延長されていないので、彼らが良い画家であるが、意義がある画家ではないのである。姜宝林氏がいつも「よい」と言われているが、まさにこの面であり、彼が伝統的な紋脈の延長に出した貢献を指すのではない。しかし私は、彼の芸術史の意義は彼が大写意花鳥画家としての優秀さではなくて、彼が花鳥画を更によく描いたことではないが、多くの人が決して「よい」とは感じていない部分にあって、人々の彼に対する探求に「疑問」を持っている部分にあると思っている。はっきりと言えば、姜宝林氏は伝統的な山水画の基本的な構造に新しいものを入れたわけではなく、伝統的な山水画の構造に対して「破壊的」な変化を与えて、即ち、いわゆる「局面打開」である。この点に関して、現在までのところまだはっきり指摘した人もいないが、彼でも、恐らく自分のやり方が「反逆」の性質を持つことを認めなくて、自分の山水に対する平面化、整合化処理が伝統的な山水画の構造に対する転覆を構成することを認めないだろう。しかし実際には、まさに彼のやり方がずっと「境地」を追求する伝統的な山水の空間の道を切断して、空間の雰囲気が満ちた山水の境地を平らにしたのである。中国の山水画の千年間の構造、甚だしきに至っては彼の指導先生の李可染がずっと狙っているものを放棄した。しかし彼はでっち上げたのではなくて、山水に対する平面化処理が完全に現代人の視角で、現代人の視覚経験から生まれたものである。例えば私達が飛行機で見下ろした大地と山並みは平面で、図案化のものである。山がどれだけ高いに関わらず、見たのがただ山並みの紋脈と構造で、川が湾曲している明るい線で、高速道路がまっすぐな線で、このような視覚経験は古人が持っていないが、古人はただ「頂上に登ると、他の山が小さく見える」という経験だけを持っていた。姜宝林は不意に現代人のこのような視覚経験を彼の作品に反映して、それによって平面化の新しい構造を形成した。そのため、彼の山水画に対する「平面化」処理は「小さい変」ではなくて、形式上の小さい補完ではなく、大きい「局面変革」であり、彼が自分さえ確定できない観念的な転換である。この変革は彼の実践の中でまだ徹底的なものではないが、彼は間違いなく山水画の近代的なモデルチェンジの問題を捉えて、出して、そして自らの体験でこの方向に向かって進めているのである。
ここで私達は先に彼の「姜氏山水」に対して簡潔に分析を行う
「姜氏山水」は大体に4つのタイプに分けられるが、1、純粋な線で山石の模様と構造を表現するもので、例えば『賀蘭山一截』(1990)、『敦煌の啓発』、『知己』(1996)、『太初秩序』(1996)、『西部山石』(1997)、『佛爾蒙特》1号(1999)、『西域山境』(2011)などがある。これらの作品はまだ一部の天地、密度の空間のイメージを保留しているが、山石以外のものを描かないのである。2、俯瞰式で、一部の装飾の味を持っている平面山水で、例えば『幽』(1994)、『西域紀行』の1、2(1994)、『鏡』、『秋山』(1995)、『天上来』(1996)、『寂』(2001)などがある。これらの俯瞰式の山水は「同一」の山脈の肌理と「水」とする空白だけある。3、広いワイド・スクリーン式の構図、平面化の山石や林の茂みで平均的に画面をいっぱい満たして、底部の中央に1本の空間特性を持つ上弧線、木や建物のアウトラインがあるもので、例えば『母親の両手』、『春』、『夏』、『秋』、『冬』、『大漠の追憶』(1998)、『佛爾蒙特』8号などがある。これらの中心点がある大きい絵は姜宝林氏が特に好きな個人化の図案構造である。4、純粋な平面化構成で、更にいかなる空間の暗示、中心と縁の区分がないもので、例えば、『狭道』、『雨歇』(1998)、『佛爾蒙特』2号、3号、『韻』(1999)などがある。これらの作品は『姜氏山水』がすでに純粋な抽象的の境地に発展変化したことを示して、また本場な伝統的な技能である。
形式から見ると、「姜氏山水」はこのようないくつか要素を含んでいるが、即ち、1、表現手法を単純化にして、潤色を省略して、線だけを使うこと。2、表現対象を整合化して、すべての自然の繁雑な視覚要素をすべて削除して、山と水や単一の林の茂みだけを残したこと。3、「重複」の手段で山石の構造を秩序化にしたこと。4、あれらの抽象に近い「構造ユニット」をバランス的に画面に満たして、すべての空間の深さに引かれる視覚要素をできるだけ弱めたり、象徴的、記号的に有限に保留したりしたこと。これらの手段を合わせた結果、平面化、更に装飾化の図案構造が出て、即ち、近代的な要素を満たした「姜氏山水」が生まれたのである。まさにこのような平面化の山水によって、姜宝林氏の芸術が大先輩と同時代の画家を超えて、古い技法を捨てていない前提で、新しい構造を創造して、山水文脈の脈線を延長して、山水画の前後関係で「次の文章」を継続したのである。
ここで特に説明しなければならないのは、「姜氏山水」が現代にモデルチェンジすることを構成するこれらの基本的な要素は決して直接に西方の近代的な観念から取ったものではなくて、彼の自身の探求から次第に昇格させて生まれたもので、伝統的な芸術、民間芸術と自身の現実から経験したものであるが、それは深く伝統的な文化の基礎に根を下ろした。これは自身の伝統から発展してきた「現代」であり、いくつかの西方の近代的な芸術因子を吸収したことを排除することができないが、その座標は強大な伝統的な芸術の基礎で創立されたものである。
黄賓虹から姜宝林へのの近代的な道
姜宝林氏が伝統的な芸術から歩いてきたこの道は黄賓虹の道に接近している。黄賓虹はまさに伝統的な文人画の自律性軌道において順調で自然でいくつかの西方の近代的な芸術観念に暗合して接近したのである。例えば、黄賓虹は客観的な対象の把握によってその「内在美」の思想に直接に達して、確かに西方の抽象的な芸術の繁栄とやり方が違っても同じ効果をあげたのである。カンジンスキーは物質世界の内在精神に対してきわめて誠意な信念を持っているが、彼は物体の見える表面で真理を求めることができなくて、真理が物体の内部世界だけに存在していると固く信じている。この無形の内部世界と内在精神の表現欲求によって、彼が見える世界に対する描写を放棄して、全く抽象的な道に上がるように促した。モンドリアンは同様に外在世界を精神領域に達する障害にみなしていたが、このような障害を取り除くために、彼も外在の形式を遠く離れて全く抽象的な表現を求めて、これが世界の本質だと思っている。黄賓虹は外在世界と抽象的な精神を絶対に対立していないが、彼は「山を書く時、本当に山になる必要はない」、「水を書く時、本当に水になる必要はない」と思っているが、それでは、「必要」なのは何なのか。「内在美を重視する」のである!「内在美を重視して」、「外観にこだわらない」という観点は同様に「物体の見える表面で真理を求める」ことを放棄して、芸術の触角を物体の内部世界(即ち、彼の言った「内在美」)に伸ばすのである。この意義で見ると、黄賓虹とカンジンスキー、モンドリアンは同一のレベルでの開拓に属するのである。そのため、黄賓虹の芸術について、私達は、この伝統的で旧習を守ると見える画家がかえって本当に時代を超える先駆者のことを驚いて発見した。全体の時代がどのように西方を模擬して更に如実に現実を再現するのかという思いにふける時、彼はすでに彼の芸術を通じて、落ち着いて伝統的な文人画を新しい価値体系に引き渡して、彼の芸術を通じて、伝統的な文人画の新しい時代環境における新しい選択を示した。黄賓虹は本来の意義で自分の芸術風格を創立しただけではなく、伝統的な文人画を新しい段階に進めて、技法をかなり純粋な状態に発揮して、芸術の中できわめて単純な品格を確立し始めた。このような「純粋さ性」はまさに伝統から生まれたもので、彼が言ったように、古代の名画を見ると、「必ずその丘と溝のアウトラインを描かなければならないが、着色と皴法について、あまり注意していない」のである。そのため、彼は常に「鈎古画法」で自然な生命のリズムを得ている。これも姜宝林氏の線描山水が追求しているものではないのか。異なったところとして、姜宝林氏はアウトラインを描くだけではなくて、また山石の構造と筋模様を描いているのである。このだけで十分であるため、彼が黄賓虹より更に極端で、更に純粋で、更に単純であるが、黄賓虹の「重厚華滋」が他人に与えるのは「空間の幻影」だといえば、姜宝林氏の曲がりくねって往復している平行曲線は画面を徹底的に形式化、「平面化」にして、平面の静態的な美感によって、その観覧者がすでに3次元空間に戻る気をなくすのである。
平面化観念と平面性に対する誤読
ここでは、「平面」に関する理論問題を明確にする必要がある。そうしないと、私達は彼の「平面化」がどうして彼をほめた群体の中で質疑と冷遇を受けたのか、ということを釈明することができない。
西方の近代的な芸術が古典を出たのは、東方芸術(例えば、日本の浮世絵)に対する誤読によったのである。これは東方芸術の線造型によって効果で平面に向かているためであるが、これも姜宝林氏が持った観点である。その「平面」がただ画面の効果だけで、材料と技法の特徴と制限によるもので、その観念と意識的な追求からのものではない。しかし西方の近代的な芸術の平面化は身を観念の中に置くもので、彼らが強情に追求しているものである。
私達が普通に近代的な芸術に対する理解は、印象派からの視覚革命であり、またこの革命が対応したのは古典芸術と学院芸術である。このような対応に対してもう少し具体的に言えば、グリーンバーグがいった「平面化の過程」である。学院芸術、古典主義の立体造型の3次元空間を次第に平面に簡略化するのである。この過程はマネーから始まって、最後に極少主義で完成した。そのため、東方芸術画面の平面効果と西方の近代的な芸術の平面化の追求は完全に異なっているのである。
中国の伝統的な芸術は西方の古典絵画のような真実な空間幻覚を生ませられる立体感と深度感がないが、画面に対する空間要求と空間想像が持久で強烈である。例えば、伝統的な絵画が追求する「境地」は何なのか。境地は画面から出てくる「空間の幻覚」で、観覧者が画面を通じて、「空間の雰囲気」に対して予設定した期待を実現した。そのため、「器」のレベルで言うと、「筆墨」は中国画のボトムラインであるが、「道」のレベルで言うと、中国画のボトムラインは「境地」である。それによって、境地がない山水画が受け入れられないのである。更に例えば、山水画で求められている平遠、高遠、深遠という「三遠」及び「見る可能」なだけではなく、また「遊覧可能」、「居住可能」なこと。これらの観念はすべて山水画の中に現実的な真実な感じを探してみて、作品の「観覧」で空間幻覚の出現を期待している。人物画の「形で精神を描いて、精神と形が兼備する」の理論の「精神」は実際にイメージが「生き生き」になる感じを指すが、生命感があると、「動感」の錯覚を引き起こすことができるようになる。そのため、絵画に対してどのように平面性を突破するのか、どのように空間の真実性を描写しだすのか、どのように描写された対象を生き生きとするのか(例えば、張僧繇が龍を書いて眼の玉を書き入れなかったが、眼の玉を書き入れると、すぐ「雷と稲光が壁を潰して、雲に乗って去った」という典故)、すべての2次元の古典芸術が3次元の目標を追求したいことが言える。上述の典故によって、伝統的な絵画の空間、生命感に対する神話のような想像力が見える。
近代的な芸術の古典芸術に対する反逆は、まさにこのような「平面化」の観念に体現されているのである。中国画業界の友人が「姜氏山水」を十分に認めていないのは、まさに彼らが依然として伝統的な山水観念に支配されて、山水画の境地(「空間幻覚」)が依然として彼らの心理の期待によるのである。姜宝林氏の作品の平面化傾向はちょうど「境地」に対する創造を弱めて、観覧者のこのようなあこがれを抱かせる想像を遮断して、それによって観覧者の方向を別の審美の範疇に誘導したのである。
「新山水」の西方の近代的な芸術理論に対する応対
「姜氏山水」に含まれている近代的な要素はグリーンバーグの論述で力強い応対を受けることができる。グリーンバーグが西方の近代的な芸術の最も権威的な説明者だと認められて、彼の理論にいくつかのキーワードがあるが、下記のとおりに照らし合わせる。
統一性の原則。彼は、「統一性の再確認は …… 芸術素質において最も大切なものだ」と言った。「偉大な芸術作品は……同時に最大限度の多様性と最大限度の統一性を持っているものだ」。「ほとんど全ての真正のオリジナル絵画の中に、まさに構成、再建に内在する表面の平面性が芸術の力を生んだ。」彼はモンドリアンの絵が「透明、調和と厳粛さ――コントロールされて冷却した激情、解決された必死の頑張り、および多様性に無理に押しつけられた統一性――を発射する孤島だ。」と評価した。姜宝林氏の「新山水」に、私達はこのような「コントロールされて冷却した激情」を味わって、このような「多様性に無理に押しつけられた統一性」を見ることができる。そのため、画面の「統一性」は「多様性」に対抗する条件で発生したもので、これは「統一性」に「解決された必死の頑張り」である。姜宝林氏が言ったように、「製造した対立が多ければ多くほど、よく統一できる」。
「等値性」、「装飾性」と「満杯絵画」の概念
グリーンバーグは「等値性」が現代の「高級芸術」の原則だと思っている。「等値性」、「単調に応対を出す。このような単調さによって作品の統一性が自明になって、同時に、作品が高度な密集になって、十分に意義がある感じを奮い立たせる。」「似ている感銘ユニットの絶えない累積」は作品の装飾性をもたらす。「装飾性」はグリーンバーグの場合、いつも肯定的な意味と否定的な意味という2種類の意義でこの概念を使っている。マチスの出現によって、装飾性が正面の意義を持つようになったが、モンドリアンの絵画も装飾に接近している。彼は、「それ自身を完全にその表面と同じにみなした絵画は装飾に向かわないのがあり得ない」と思っている。「満杯絵画」の概念に関して、「最も完備している近代的な絵画で、最も抽象的な統一性を持って、媒介者に最も直接の認知を持っている絵画で、『中心を消して』、『復調的』で、『満杯』な[all-over]絵画だ。このような絵画は同一の多様性や類似の要素から構成されており、画面の一端から別の端まで絶えず自分を繰り返して大きい変化がないが、そして、開始、中間と終了の表面をぶら下げた織物だ」。グリーンバーグのこれらの論述は「姜氏山水」に対して言ったようである。姜宝林氏の平面化山水はまさにこのような「等値性」によって「作品が高度密集になって」、そして「単調に対応を出した」のではないのか。一部の大型の作品はまさに「中心を消して」、「復調的」で、「満杯絵画」のではないのか。まさに「画面の一端から別の端まで絶えず自分を繰り返して大きい変化がないが、そして、開始、中間と終了の表面をぶら下げた織物」のではないのか。重要なのは、姜宝林氏の作品のこれらの典型的な近代的な要素と近代的な芸術特徴が西方から習得してきたものではなく、中国の伝統的な芸術(民間芸術も含む)に基づいて生まれたものである。『庚午秋』という絵を例にして、全く伝統的な技法で筆を使ったが、創造した構造が極端に伝統的で、また極端に現代的なことが言える。伝統は黄賓虹の作品精神だけ体得できるだけではなく、また王原祈の抽象的な山石構造に遡ることができる。それが「極端に現代的だ」を言うのは、それが創造した抽象的な構造が更に本質的に山水の精神を体現しているためである。そのため、姜宝林氏の芸術の意義は、彼が新しい山水の構造を創造したことだけではなく、またそれが伝統的な芸術に持っている「新しい変革構造」を証明して、その自身が現代にモデルチェンジする可能性を証明した。黄賓虹から姜宝林まで、この「内から外へ」の道は山と川が連なる道で、苦境にあって希望が見えてくる道で、時代の変遷に順応して出てくる望みの道である。
(中国文化人物)
(編集:趙建華)
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